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死ぬ気になればなんでもできる
健常な時は私もこう思っていた。
でも、この言葉はあくまでも健常な人の価値観に支えられているものであり、多くの死にたい人間には無意味である。
健常な人は、「死」を恐怖、不幸、最低、その他ありとあらゆる悪いイメージの究極にあるものと捉えている。
だから、死を恐れ、死ぬよりはどんなことをしても生きている方がましだと考える。
しかし、死にたい人間はそうではない。
本当に、心から死を望む人間である。
健常な人には想像もできないと思うが、死は幸せであり、憧れである。
受け入れがたいかもしれないが、死にたい人間はこういう価値観を持っている。
そういう人をつかまえて「死ぬ気になればなんでもできる」というのはちゃんちゃらおかしい。
しいて言えば貧乏人に「金持ちになるくらいなら、乞食の方がましだ」といっているようなもの。
「死ぬ気になればなんでもできる」という言葉が有効なのは、「死にたくないけど、死ぬしかない」と思い込んでいる人にだけ。
でも、この言葉はあくまでも健常な人の価値観に支えられているものであり、多くの死にたい人間には無意味である。
健常な人は、「死」を恐怖、不幸、最低、その他ありとあらゆる悪いイメージの究極にあるものと捉えている。
だから、死を恐れ、死ぬよりはどんなことをしても生きている方がましだと考える。
しかし、死にたい人間はそうではない。
本当に、心から死を望む人間である。
健常な人には想像もできないと思うが、死は幸せであり、憧れである。
受け入れがたいかもしれないが、死にたい人間はこういう価値観を持っている。
そういう人をつかまえて「死ぬ気になればなんでもできる」というのはちゃんちゃらおかしい。
しいて言えば貧乏人に「金持ちになるくらいなら、乞食の方がましだ」といっているようなもの。
「死ぬ気になればなんでもできる」という言葉が有効なのは、「死にたくないけど、死ぬしかない」と思い込んでいる人にだけ。
感情と理性
健常な人間は、感情と理性が上手に折り合っている。
現在の私の状況は次のようなものである。
感情の私が、小さい子供のように、開かない扉を前に泣き喚いている。
その隣に理性の私が「ほらほらいつまでも駄々をこねていないであっちへ行きましょう」といっている。
今までの私なら、それで感情の私が泣き止み、新たな扉を探して歩き出すのだけど、今の私は、感情の私が暴れたまま手がつけられず、理性の私はそれをただ呆然と見ているだけ、という状態。
なぜ、こうなってしまったのか、そしてどうして感情の私が動こうとしないのか、私にはわからない。
(ただ、何がきっかけだったのか、はわかる)
でも、どうしてもその「開かない扉」に固執する感情の私がいる。
そして、開かない扉を嘆いている:「この扉があかないのなら死ぬ」と。
理性の私も考えている:「これだけなだめても絶対開かない扉を前に暴れ続けるのなら、死んだほうが幸せだろう」と。
人間の感情を一切なくすことができれば、私は死にたくなくなるであろう。
現在の私の状況は次のようなものである。
感情の私が、小さい子供のように、開かない扉を前に泣き喚いている。
その隣に理性の私が「ほらほらいつまでも駄々をこねていないであっちへ行きましょう」といっている。
今までの私なら、それで感情の私が泣き止み、新たな扉を探して歩き出すのだけど、今の私は、感情の私が暴れたまま手がつけられず、理性の私はそれをただ呆然と見ているだけ、という状態。
なぜ、こうなってしまったのか、そしてどうして感情の私が動こうとしないのか、私にはわからない。
(ただ、何がきっかけだったのか、はわかる)
でも、どうしてもその「開かない扉」に固執する感情の私がいる。
そして、開かない扉を嘆いている:「この扉があかないのなら死ぬ」と。
理性の私も考えている:「これだけなだめても絶対開かない扉を前に暴れ続けるのなら、死んだほうが幸せだろう」と。
人間の感情を一切なくすことができれば、私は死にたくなくなるであろう。
絶対評価と相対評価
「死にたくないのに死んでいった人もいるのだから、その人の分も生きろ」という人がいる。
死にたい人間でも、そういうことは理屈ではわかる。
でも、死にたい人間がいくら生きたところでその死んでいった人が生き返るわけではない。
現実に非常に苦しんでいる人間に対し「生きろ」といったところで、その苦痛が和らぐわけではない。
例えば、非常にまずいものを食べている時に「世界には物を食べたくても食べられない人もいるのだから我慢して食べなさい」と言われたとする。
それ自体は正論かもしれないが、いくら理屈ではわかってもまずいものはまずい。
食べ物くらいなら、我慢して食べてしまえばそれでおしまいだが、それが毎日続くのであれば、そんな正論だけではまずいものを食べていくのは無理であろう。
死にたい人間にそういう相対評価を持ち出して、「あなたより不幸な人はいっぱいいる」というのも同じ。
そんなことをいったところで、死にたい人間の苦しみが和らぐわけではない。
そんななぐさめは「我慢しろ」というのと同じ意味しか持たない。
死にたい人間は現実に大きな精神的苦痛と向かい合っている。
精神的苦痛を感じるのは感情であって理性ではない。
そして、感情に対してリクツで説得しても何の効果もない。
根元の感情は快・不快の2つだという。
この2つは絶対評価だから、結局感情は絶対評価しか考えられない。
だから、死にたい人間に相対評価の論理で説得しても無駄である。
理性は納得するけど、感情は納得しないから。
そして、死にたい理由は感情が納得しないことにあるのだから。
死にたい人間でも、そういうことは理屈ではわかる。
でも、死にたい人間がいくら生きたところでその死んでいった人が生き返るわけではない。
現実に非常に苦しんでいる人間に対し「生きろ」といったところで、その苦痛が和らぐわけではない。
例えば、非常にまずいものを食べている時に「世界には物を食べたくても食べられない人もいるのだから我慢して食べなさい」と言われたとする。
それ自体は正論かもしれないが、いくら理屈ではわかってもまずいものはまずい。
食べ物くらいなら、我慢して食べてしまえばそれでおしまいだが、それが毎日続くのであれば、そんな正論だけではまずいものを食べていくのは無理であろう。
死にたい人間にそういう相対評価を持ち出して、「あなたより不幸な人はいっぱいいる」というのも同じ。
そんなことをいったところで、死にたい人間の苦しみが和らぐわけではない。
そんななぐさめは「我慢しろ」というのと同じ意味しか持たない。
死にたい人間は現実に大きな精神的苦痛と向かい合っている。
精神的苦痛を感じるのは感情であって理性ではない。
そして、感情に対してリクツで説得しても何の効果もない。
根元の感情は快・不快の2つだという。
この2つは絶対評価だから、結局感情は絶対評価しか考えられない。
だから、死にたい人間に相対評価の論理で説得しても無駄である。
理性は納得するけど、感情は納得しないから。
そして、死にたい理由は感情が納得しないことにあるのだから。
殺し屋
ネットで殺人依頼をした人と依頼を請け負った人が逮捕されたというニュースを読んだ。
依頼者が払った費用は100万円くらいだそうだ。
死にたい人間は思う。
もし、私が殺し屋に私を殺してくれ、と依頼できるか、と。
100万円くらいなら、借金しまくればなんとかなる。
ボーナスまで待って、サラ金で借りまくれば100万くらいなんとかなるだろう。
私の依頼で私を殺せばやっぱり殺人罪かな?自殺幇助にはならないのかな?
でも自殺サイトと同じで、信頼できる殺し屋を探すのは難しいな、と思う。
前金で半額、成功報酬でのこり半分、というと、私が死んだ後どうやって受け渡したらいいのだろうか?
そんなことを考える。
100万で死ねると思うと、なんとなく安心した気分になれる。
依頼者が払った費用は100万円くらいだそうだ。
死にたい人間は思う。
もし、私が殺し屋に私を殺してくれ、と依頼できるか、と。
100万円くらいなら、借金しまくればなんとかなる。
ボーナスまで待って、サラ金で借りまくれば100万くらいなんとかなるだろう。
私の依頼で私を殺せばやっぱり殺人罪かな?自殺幇助にはならないのかな?
でも自殺サイトと同じで、信頼できる殺し屋を探すのは難しいな、と思う。
前金で半額、成功報酬でのこり半分、というと、私が死んだ後どうやって受け渡したらいいのだろうか?
そんなことを考える。
100万で死ねると思うと、なんとなく安心した気分になれる。
怒りと悲しみ
メンタル系サイトを眺めていると、意外と多くの自殺志願者がなんらかの怒りや恨みを持っていることに気づく。
「あいつのせいで私はこうなった」とか「あいつさえいなければ」とか。
私には残念ながらそういうことがない。
この点が私と一般の?死にたい人間との違いかもしれない。
私の場合はただ悲しいだけ。
ひたすら落ち込むだけ。
むしろ、怒りの感情でもあったほうが生きていく元気が出そうな気がする。
だから、怒りの感情がありながら、自分が死にたい、という方向を選ぶのは不思議な気がする。
自分もそのうち、この不思議な感覚がわかる日がくるのだろうか。
それとも、その前にちゃんと死ねるのだろうか。
「あいつのせいで私はこうなった」とか「あいつさえいなければ」とか。
私には残念ながらそういうことがない。
この点が私と一般の?死にたい人間との違いかもしれない。
私の場合はただ悲しいだけ。
ひたすら落ち込むだけ。
むしろ、怒りの感情でもあったほうが生きていく元気が出そうな気がする。
だから、怒りの感情がありながら、自分が死にたい、という方向を選ぶのは不思議な気がする。
自分もそのうち、この不思議な感覚がわかる日がくるのだろうか。
それとも、その前にちゃんと死ねるのだろうか。





